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連載 : きむらけんたろうの旅先で俺も考えた。

2024/03/16

第19話 17年前の初めてのカンヌ審査で覚醒した。

木村健太郎

今年、カンヌライオンズの審査委員長に任命されました。

去年の年末のある日、ちょうど気合い入れて作ったある社内提案が思い切りすべったことがあって、その夜、心の傷を癒やしにひとりで飲みに行っていたら、スマホにメールが届いて、開いてみたら「カンヌの審査委員長のデジタルクラフト部門の審査員長をやってほしい」というカンヌライオンズからのメールでした。もちろんむちゃくちゃ光栄でしたが、同じ日にこんなドラマチックなことが重なって、なんだか神様のいたずらのような気がしたのを覚えています。

まっさきに思い出したのは、17年前の自分でした。
今まで30回以上さまざまな国際賞審査員をやってきましたが、実は一番最初がカンヌの審査だったのです。順番が違うだろう、おかしいだろうと今でも思いますが、とにかくいきなりのカンヌでした。でも当時の自分は今よりずっとピュアで真っ直ぐでした。そして今でも忘れないドラマがありました。あのときの初心を忘れてはいけないな、あの気持ちでやらねば、と強く思ったのでした。

実は、この連載を読んでくれた友人に、「うまく行った話だけじゃなくて、もっと初心者だったときのリアルな失敗談や奮闘記が聞きたい」という指摘をいただいたので、今回は国際賞審査初体験の時の話を、当時の日記を振り返りながら、当時体験した2度とはないドラマを、ちょっと長文になりますが、なるべくライブにリアルに書いてみようと思います。

 

受験

僕がはじめて国際賞の審査員をしたのは2007年のカンヌプロモライオンでした。

審査員の内々定が来てからの半年間、英語は受験生に戻ったつもりで死ぬ気で勉強しました。仕事している時間と寝ている時間以外は、可能な限りヘッドフィンをつけて英語を聞いていました。
当時はバッグパッカー英語レベルしかしゃべれなかったのですが、735だったTOEICを半年で915まであげました。自己紹介を5分、2分、30秒で話せるように、練習して暗記しました。
単語をたくさん覚えました。英会話の先生について、自分の意見を論理的に英語で構築して話せるように訓練しました。
ケトルからも4作品エントリーして、ドキドキしながらカンヌに飛びました。
受験生が入試に向かう時のように、カンヌへ向かう飛行機や電車の中でも単語やフレーズを復習しました。

 

苦戦

しかし、実際の審査はそう甘くありませんでした。

まず、丸暗記した自己紹介は全く使うことがありませんでした。そもそも国際賞審査で、日本のように形式張った自己紹介をする機会なんてほとんどありません。審査前日のパーティでカジュアルに握手するだけ。
もちろん準備するに越したことはないけど、今までやった審査のうちで、みんなの前で改まって自己紹介したことは数回しかないし、それも15秒くらいなもんです。

 

 

翌日、3日間のショートリスト審査が始まりました。毎日メンバーが変わる3チームに分かれて、分厚いバインダーをめくりながら、ビデオとボードを見て軽くディスカッションしつつ、タブレットで9段階評価で採点していきます。

 

 

しかし、ビデオを見て、言いたいことを思いついて、論理立てて話しはじめても、結論まで話し終える前に他の審査員にさえぎられてしまうのです。
たどたどしい英語だとなおさら最後まで聞いてくれない。ちゃんと最後まで聞いてよー。と思いつつも悔しい思いの連続。

で、4~5回さえぎられちゃうと、もう発言しにくくなってしまって、さらに他の審査員達も「あの日本人はたいしたこと言わないな」と思われてしまう。
審査員は個性の強いCDやECDクラスの人たちが18人も集まっているので、信頼される発言をしないと無視されていく過酷な運命なのです。
こうなるともう超バッドスパイラル。審査2日目には礼儀正しくて寡黙な、典型的な日本人になってしまいました。

 

反省

今思うと、僕は日本語の感覚で、論理立てて話そうとしていたからです。
たとえば、PAGOという作品がありました。サイバーマネーを普及するために、実際のお札にシールを貼ったプロモーション。僕はいいと思ったので瞬時にこんな応援演説を組み立てました。

 

 

 

「サイバーマネーのプロモーションって、使ったことない人にはその便利さが実感しにくいから、実はすごく難しい課題だと思うんです。でも、実際のお札にシールを貼るというこのアイデアは、目に見えないサイバーマネーを"見える化"することで、実際にお金を使う瞬間を捉えた。これは、とっても新しいし強力なアイデアだと思います。」
日本人だったらちゃんと聞いてくれますよね。

でもカンヌでは、
「サイバーマネーのプロモーションって、使ったことない人にはその便利さが実感しにくいから、すごく難しいと思う‥」
くらいで別の誰かにさえぎられちゃって次の話題にいってしまう。
一番言いたいこと言う前なのに‥。

英語では、結論から言わなきゃいけない。
この大原則、頭でわかっちゃいるけどなかなか実践できないんですよね。
では、どう言えば聞いてもらえたのか? 今の僕ならこう始めます。

「ワンダフルアイデア! フレッシュ&ストロング。ビコーズ‥」
と結論だけ言いきって、みんなの "WHY?" を引き出してから、
「目に見えないお金を"見える化"したから」
と一番言いたいポイントから具体を話し、誰かがうなずいたら
「それで、実際にお金を使う瞬間を捉えたし」
と戦略にさかのぼって、最後に、
「さらに、課題も難しい。使ったことない人にその便利さを伝えるなんて。」
と意義を説明するのです。日本語の起承転結と逆なんですよね。

そうこうするうちに、僕らのエントリービデオも流れました。
自分たちのビデオが流れると、もう心臓がバクバクしてしまって、さらに誰かがネガティブなことを言ったり、「フッ」と鼻で笑おうもんなら、もう顔まで真っ赤になってしまうのです。
(誰かフォローしてお願い!)と心の中で叫びますが、誰もフォローなんてせずにスルーされて落選。あれは本当に心臓に悪いと思いました。
さすがに今は大人になったので、自分のが流れようが、けなされようがなんとも思わなくなりましたが。

ということで、全然ダメダメでした。最初の3日間は。

 

炎上

転機は4日目にやってきました。
実はプロモ部門はできて2年目の若いカテゴリーだったので、まだ審査基準が明快に決まってない上、19人の審査員のバックグラウンドもSP系、クリエイティブ系、マネジメント系と分かれていて、それぞれ、SPメディア重視、アイデア重視、リザルト重視と選ぶ基準がばらばらでした。
たとえば、アイデアは素晴らしいけど、メディアが屋外看板だったりすると、クリエイティブ系の人は応援するのに、SP系の人は「これはプロモじゃない!」と否定して落とそうとする。
そこで僕らはブラジル人の審査委員長に「プロモの定義って何?」と何度も質問したのですが、彼は「It’s all about the idea.」と繰り返すだけで、いっこうに指針をくれない。
みんなどんどんフラストレーションがたまっていって、3日目のランチでは、「あの審査委員長をボイコットしようぜ」という審査員が出るくらい険悪な雰囲気になっていました。

そして4日目、ついに審査員の不満は爆発、炎上してしまいました。
朝8時半からショートリスト130作品のビデオをまとめて見たとき、人によってあまりに基準が違うことを目の当たりにした僕らは、緊急動議をしたのです。

「このショートリストは納得できない。もう一度ショートリストを選び直したい。」
当時のカンヌのルールでは、一度選ばれたショートリストを落とすことはできません。そこで僕らはテリー・サベージ会長を呼びつけて、交渉したのです。
結果、僕らの動議は例外的に受け入れられ、ひとりひとりが、これはショートリストに値しないと思う落選候補作品をあげて、みんなで議論してもう一度投票することになったのです。

 

覚醒

 

最初の番はあるヨーロッパの国のAさんでした。
(えげつないので、個人名、作品名は伏せます)

「まず、この日本の作品を落としたい。」
それは日本では結構有名なバイラルキャンペーンでした。
「理由は3つ。商品特徴を言い得てない。チープでブランドを毀損している。そしてエントリービデオの内容と作品が合っていない。これはゴミだ!」
マジかよ。このまま投票したら落ちてしまう。みんなが僕を見る。どうしよう。

そのとき、僕の中に、日本の仲間のために戦う決意がムクムクと湧いてきました。すると、それまで寡黙だった僕の口から、すらすらとロジカルな英語が飛び出してきたのです。
「この作品はショートリストに残すべきだ。ひとつめに関しては、ブリーフが商品理解でなく認知獲得だったからその指摘にはあたらない。ふたつめに関して言うと、そのブランドの日本でのブランドパーセプションが欧米と異なることを理解すれば、問題がないことは明白だ。みっつめに関して言えば、僕らはエントリービデオでなくエグゼキューションを評価すべきではないだろうか。」
投票。セーフ。よかった。

しかし、Aさんの攻撃はそれだけでは終わりませんでした。
「次に落としたいのはこの日本の作品だ。下品だ。審査員の品位を下げる。」
なんだこいつ、日本人に論破されたのが気に食わなかったのか、日本になんか恨みでもあるのか。もう頭に来た。こうなったら徹底的に応戦してやる!

僕は完全に覚醒しました。英語脳は必要脳なので、バトルやサバイバルで覚醒するのです。
「この日本の作品についても落とすべきだ。これにはアイデアがない。」
結局彼は、日本の作品の多くにケチをつけ、僕は全力で応戦。

気づくと、アジア、南米、ロシア、アフリカの審査員の大半は僕を応援し、欧米の審査員の多くはAさんを応援していました。なんだこれ、噂に聞いていた「欧米 VS それ以外」という文化の衝突じゃないか。

 

 

こんなしんどい投票が続きました。ネガティブなディベートはみんなを急速に疲弊させていきます。僕は頭痛がしてきました。あるアジアの審査員は、激昂して、
「君たち欧米人たちは、市場や文化の多様性をもっと理解すべきだ!」
と叫んでしまい、審査委員長に制止される場面もありました。
南アフリカの女性の審査員は「みんなで選んだものをこんなに落とすなんて絶対おかしい」と泣きそうになりながら何度も懇願したけど受け入れられませんでした。
オーストリア人の女性審査員は、興奮して気づかずにドイツ語をまくしたて、これには全員大爆笑。
休憩中には、彼らにどう打ち勝つかについて作戦会議をしたりもしました。
ある審査員が、Aさんに落とされた日本の作品を敗者復活戦で再投票にかけてくれたときはうれしくて泣きたくなりました。

 

定義

結果、落選候補として投票にかけられた33作品のうち、生き残ったのはわずか11作品のみ。Aさんは日本の作品だけでなく、自国の作品もバシバシ落としていきました。日本の作品の中には、残念ながら落ちてしまった作品もありましたが、なんとかその半分以上をショートリストに残すことができました。

でも、これが一番本質的な議論を呼び起こしました。
ひとつひとつの作品について、何がアイデアで、何が強いのか、どのくらいワークして、ウソやコピーはないのか、について審査員のプライドを欠けた意見を戦わせる中で、「プロモとは何か」というカテゴリーの定義がなんとなく見えてきたのです。
「プロモとは、メディアの種類に関わらず、短期間に人を動かすアイデアのことなのではないか。」
明文化はされませんでしたが、そんな結論になった記憶があります。

今思えば、個人的には、数年後に「プロモ&アクティベーション」というカテゴリー名になったその原型がこの日に生まれたような気がしています。

 

 

全員憔悴しきって、この日の13時間の審査を終えたとき、最後に審査委員長がこう締めくくりました。
「みんな今日はよくがんばった。私がカテゴリーの定義や審査基準をあえて決めなかったのは、できて2年目の若いカテゴリーに必要なこういう議論をしたかったからなんだ。」
不思議なことに、この瞬間みんな審査委員長のことが大好きになりました。確信犯だったかどうかはわかりませんが、彼は最高のファシリテーターだったと思います。

 

結実

翌日の審査最終日は、前の日の対立がウソのようにさわやかな雰囲気で記念写真をとって、メダルを決めていきました。
議論でどんなに対立しても翌日にはしこりを残さない、こういう文化は本当にうらやましいと思います。
当時のカンヌでは、ライオン決定の投票は2回行われるシステムでした。
午前中に一度全ショートリストについて投票し、3分の2の挙手でいくつかライオンが決まる。しかし議論が尽くされなかったものや後一歩だったものについて演説合戦が行われ、もう一度投票を行うのです。
雨降って地固まる。昨日の激論のおかげで、グランプリまで極めてスムーズに決まって行きました。
南米やアジアの審査員達の強力な応援で、日本にはふたつのウィナー(ゴールド)をもたらすことができました。
博報堂からは、パナソニックのオキシライド乾電池が受賞!

 

 

ちなみに、僕が推していた前述のPAGOは、最終日にもう一度応援演説して、ウィナー(ゴールド)になりました。
生意気にも審査員講評に立候補して、録音室でPAGOについてマイクに向かってしゃべり、授賞式で、僕の下手な英語のコメントが流されました。

 

 

解放

審査終了時にふるまわれたシャンパンは本当においしかった。みんな5日間のハードワークを終えた達成感と満足感でいっぱい。不安や緊張、ストレスが大きければ大きいほど、審査が終わった瞬間の解放感は最高に気持ちいいものなのです。
国際広告賞の審査は毎回つらいなと思うことが多いのですが、終了時のこのエクスタシーを覚えてしまったから、今まで30回もやれてきたんだと思います。
記念写真を撮って、全員の審査修了書に全員がサインをして、まだ当時日本では有名でなかったFacebookにこのとき初めて登録して全員がつながりました。

 

 

当時のカンヌでは、審査員パスがあればだいたいどこでも入れたし、まだいろいろな特権がありました。
ホテルの部屋には巨大なオレンジ色のエルメスの箱が置いてあったりしました。(でも中身はライオン柄の巨大なバスタオルで、女性陣には「世界3大がっかりのひとつ」と呼ばれていました)
各国4枚づつしかチケットが渡されないゴージャスなビーチパーティにも参加したし、審査が終わった日には、審査員向け特設バーがビーチにあるという噂を聞きつけて行ってみんなで乾杯しました。僕はAさんの隣に座ってお酒を飲みかわして仲良くなりました。(ちなみに写真の隣の人はAさんではありません)

 

収穫

僕の不幸は、最初の国際賞審査がタフなカンヌだったこと。
4日目のドラマがなかったら、僕は点数をつけるだけの存在感の薄い審査員に終わっていたかもしれません。
でも、幸運だったのは、Aさんが僕を覚醒させてくれたことでした。彼には大感謝です。彼とのバトルを通して、一緒に戦った審査員達との間に、なかなか得がたい絆が生まれたからです。

 

 

僕は審査員としては及第点にはほど遠かったと思うけれど、最大の収穫は同じ業界に外国人の友達ができたことでした。
今でもみんなとFacebookでつながっているし、現地の彼らのオフィスを訪ねたこともあります。毎年カンヌのパーティで当時のメンバーの誰かとばったり再会するのですが、そのときはいつもAさんとのバトル話で大笑いしています。

もしあまり英語に自信がない方が国際賞審査員を初めてやる機会を得たとしたら、日本ではぎりぎりまで可能な限り英語を鍛えた上で、現地に入ったらあまり力まずに、一生つきあえる外国人の友達を作ることを目標にしたらいいのではないかと思います。

6月のカンヌライオンズも、あまり気負わずに、17年前のようなピュアな気持ちの自分でまっずぐ取り組んで、新しいドラマが生まれることを楽しみにしています。

 

木村健太郎
1992年に博報堂入社後、ストラテジーからクリエイティブ、デジタル、PRまで職種領域を越境したスタイルを確立し、2006年嶋と共同CEOとして博報堂ケトルを設立。マス広告を基軸としたインテグレートキャンペーンから、デジタルやアウトドアを基軸としたイノベーティブなキャンペーンまで共同CEO兼ECDとして幅広いアウトプットを創出する。これまで10のグランプリを含む150を超える国内外の広告賞を受賞し、カンヌライオンズチタニウム部門審査員、アドフェスト審査員長、スパイクスアジア審査員長など30回以上の国際広告賞の審査員経験を持つ。海外での講演も多く、2013年から7回にわたりカンヌライオンズ公式スピーカー。ADWEEKの世界のクリエイティブ100に選ばれる。2017年からケトルに加え、博報堂の海外ビジネスのスタッフ部門を統括する役職を兼任。現在は博報堂のグローバルとクリエイティブの執行役員とインターナショナルチーフクリエイティブオフィサー。コロナ期を除き、年間100日間程度海外を飛び回る生活をしてきた。著書に『ブレイクスルーひらめきはロジックから生まれる』(宣伝会議)がある。
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