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連載 : ロスジェネ経営者の夜明け

2019/12/20

株式会社大治① 「汗をかけばお金になった」最後の時代

ケトルキッチン編集部

日本の多くの経営者や経営者を支える人々に捧ぐ!

ビジネスにおける、事業承継のリアルと、維持・成長の仕方を学ぶ本連載。1973年生まれのKANDO株式会社 代表取締役のディスカッションディレクター高橋輝行さんと、1972年生まれの博報堂ケトル共同CEO・船木研の“ロスジェネ世代”コンビで、毎回様々な分野で活躍する同世代の経営者を招く鼎談形式の連載です。

第1回目のゲストは「東京野菜」ブランドを推進する東京野菜普及協会の理事、また創業70周年を迎える株式会社大治(だいはる)代表取締役社長の本多諭さん(1971年生まれ)をお招きし、事業の引き継ぎから、これからの青果仲卸業の未来についてお聞きしました。(下写真左から、船木、本多氏、高橋氏。以下、敬称略)


高橋:「ロスジェネ経営者の夜明け」の記念すべき第1回ということで、今日は大治の本多社長にお越しいただきました。

いわゆるロスジェネ世代と呼ばれる、30代後半から僕らのような40代後半の世代の人たちが厳しい時代を経て、ようやく今力を発揮できる時代になってきています。かといって、世の中的には先々がバラ色な感じでもない中で、それでもあと10年、20年は戦っていかなきゃいけない状況にある。

ということで、今後ロスジェネ経営者の間で、新しい基軸や自分なりのビジョンを持とうとする動きが広がっていくと予想するのですが、そのヒントを中堅・中小企業の経営者にも学べるんじゃないかと僕らは考えているんです。

本多:お招きいただきありがとうございます。と、その前に僕ってロスジェネ世代なんですね。そう思って別に生きてこなかったからな(笑)。

船木、本多:(笑)

高橋:でも確かに、子供の頃はファミコンが出たりして、どんどん周りが上昇していくというか、変化していく時代でしたよね。世の中が右肩上がりでワーッとおもちゃ箱みたいに面白くなっていくという経験を経て、高校・大学に進学し、就職でスコーンと急にハシゴを外されたというか。

船木:うん、そうですね。就職してから給料はあまり上がらなかったし、ピークからドンと落ちて、それから90年代、2000年代とずっと停滞。インターネットも、就職してからの後発組だったり。なんか色んなものがド真ん中の世代じゃないから、なんとなく冷めているというか、全てを客観視している世代のように僕自身は感じています。

本多:お金についても、どこか客観視している部分があるかもしれませんね。それこそ昔は現金を見る機会も多くて、塾の先生が胸ポケットに札束を入れていたり、荷物を運んであげたら普通のお母さんから2千円のお駄賃をいただくなんてびっくりなこともあったりしたんですけど。

そういう意味で、豊かな時代も知っているからお金をそこそこ意識しつつも、バブルが崩壊し世の中が変わっていく過程で、お金だけじゃない価値観もあるということも知っている。そのあたりのバランスが取れている世代なんじゃないかと思うんですよね。

高橋:私も同世代の経営者の方々とディスカッションを行う中で、お金だけガツガツ稼げばいいんだという考え方ではない経営者もいらして、世もまだまだ捨てたもんじゃないなと感じています。本多さんもそのお一人なのですが。

さて、本多さんは、東京・大田市場に営む仲卸会社「株式会社大治」を経営されています。おじいさまが青果の仲卸として創業、お父さまの代を経て、本多さんが引き継がれました。

3代目として、これまでスーパーマーケットでの仲卸中心だったところに外食産業への配送を始められたり、「東京野菜」という東京の青果生産者を取りまとめたブランドづくりをされつつ、大治の新しい時代を切り拓こうと挑戦されている。

まずは、創業されてちょうど今年で70周年ということで、会社の成り立ちから歴史をお伺いできますか?

本多:祖父が戦争から戻って1949年に創業しました。仲卸業界は、同じ頃に創業したところが多いんです、やっぱり戦争が終わった頃にということで。その中で弊社も創業したんわけですけど、もともとは業界で「いもたま」と言われるじゃがいもと玉ねぎ専門の仲卸だったんですね。それが、たまたま戦後にスーパーマーケットという形態が日本に生まれたんです。1953年、日本における最初のスーパーマーケットが店を開く前に、うちに「じゃがいもと玉ねぎを袋に詰めてくれないか?」と相談にいらして。要は、“パッケージング”ですよね。それまでの八百屋さんでは包装の習慣はなかったので。

当時は「スーパーマーケットなんて、そんなのすぐ潰れるよ」と言われた時代でした。その時、なぜだか分かんないけどうちの爺さんは「やりますよ」と引き受けて。それがきっかけで、日本で最初のスーパーマーケットと取引したということで、そこに追随する第2号、第3号のスーパーマーケットが「同じところで仕入れよう」と、うちにまとまった注文をされるようになっていきました。

高橋:そうして発展していったんですね。

本多:祖父が創業した場所である神田市場というのが1989年、大田区に移転して今の大田市場となりました。僕が就職したのが1994年、新卒で2年間大手高級スーパーさんに勤めてから、1996年に大治に入社したのですが、創業からそれまではずっと、弊社はいわゆる高級スーパーマーケットと言われるところを中心に、ほぼ100%スーパーに納品していたんですね。大治に入って最初の頃は、既存顧客の注文をいかにして増やすかということを考えながら僕は仕事をしていました。

というのも、スーパーマーケットというのは、大きなところでも7社ぐらいの仲卸から、小さなスーパーマーケットでも大体2、3社の仲卸から仕入れています。そうすると仲卸会社というのは、その中での売り上げシェアをどうやって伸ばすかというところをまず考えるんです。それなのに、僕が大手高級スーパーにいた2年間で、仲卸の方が営業に来られるのを見たことって2回しかありませんでした。1回はうち(大治)なので良かったんですけど、あとはもう一社だけ。

船木:へえ、そうなんですね。

本多:だから、もっとちゃんと営業すれば売上が伸びるんじゃないかと思って、実行したんです。僕が入ったときには従業員が30人で売上20億ぐらいの会社だったんですけど、2、3年で7億ぐらい面白いほど伸びました。

高橋:素晴らしいです。そんな風に、スーパーマーケットという需要ができて、そのニーズをしっかり捉えられて、営業活動にも力を入れたらさらに売上が伸びていったというわけですね。その後、社会や顧客のニーズの変化などが出てきて、外食産業への配送に力を入れ始めたというイメージでしょうか?

本多:そうですね。そこには不況という要素が大きく関係していて、先ほどちょっとお話したように、僕らの世代がちょうど就職で苦労しはじめる第1期生なんですよ。

船木:本多さんは僕の1つ年上だから、きっとそうですよね。

本多:はい、たった3歳年上の僕の姉貴の頃までは、会社説明会に行くとお車代とかもらってくるような売り手市場でした。でも、本当に景気が悪くなるのが僕より3つ下ぐらいで、その学年が就職するときに大手証券会社が倒産したんですよね。僕はちょうどそのあたりのタイミングで大治に入ったわけですけど、最初の頃は食品を扱う業界だったので、他業界に比べるとまだよかった。頑張れば自分のかいた汗がお金になる、最後の時代だったと思います。

ところが2000年代になるといよいよ様子が変わってきて、今までどんどん出店していたスーパーマーケットが店を閉め始めたんです。5店舗あったところが3店舗に、3店舗あったところが2店舗にと…。取引先のスーパーマーケットが破産して、その1発で何千万円も資金が焦げ付いたこともありました。

そうするうちに、スーパーマーケットって我々の世代にとっては当たり前の存在だけど、もしかしたら将来はもっと違う業態が出てきて、当たり前じゃなくなる可能性もある。スーパーという一つの業態だけに依存していると、仲卸会社としての将来がないかもしれないと思うようになったんですね。

たまたまそのときに、外食産業にも納品しないんですかという問い合わせがチラホラ来ていて。仲卸業界って、例えば飲食店のニーズに応えて、細かくレタス2個配送とかはあまりやらなかったんですけど、僕は「それやります」と言って。

船木:うーん、なるほどなぁ。

本多:そうして今から17、8年前頃から、外食産業に納品を始めたんですよね。その時は今のように「ブルーオーシャン」みたいな言葉もなかったけど、他社がやらないことをやるという、比較的泳ぎやすい状況だったのでオファーがどんどん来まして。結果的に、弊社の売上は数年前からスーパーマーケットが55%、外食産業が45%になって、ほぼ半々になったというのが現状です。

高橋:スーパーマーケットの市場が縮小していき、新しいニーズとして外食産業に納品し
ていくという事業形態が見えてきたんですね。ちなみに、そのときはまだ本多さんは大治の社長ではありませんよね? 

本多:そうです、2011年に社長就任ですから。ですが、30歳過ぎにはすでに専務になっていましたし、もっというと入社のときから、当時青果物業界の組合の理事長をやっていて忙しかった父からは、なんとなく経営も「お前がやっとけ」という感じで。専務になった頃には、ほぼ社長と変わらない役割を果たしていました。お金がないときだけ「社長!」と父に頼って、あとは全部やっていましたね。

高橋:2代目、3代目の経営者がよく経験する、お父さまとの確執があって事業の承継が進まない、そういうことはあまりありませんでしたか?

本多:事業承継の点ではもめませんでしたが、仕事の中身的には多少のぶつかり合いがありました。弊社の本流である青果物の販売、仲卸業としてのぶつかりはなかったのですが、僕が色んな新しい事業形態を始めようとしたので、そこに関しては結構イヤな顔をされましたね。

なので、「じゃあいいです、大治ではやらずに自分の会社を作ります」と宣言して、自己資金で八百屋店、惣菜店、お弁当製造店を始めた結果、大損したと。今もそのときの借金を自分の会社に払っているという感じです(苦笑)。

<つづきます>

ケトルキッチン編集部
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